『ワンパンマン』を哲学する③:組織で動く私たちと個で輝くサイタマやタツマキ
「ワンパンマンで誰に憧れる?」
さて、あなたはなんて答えるだろうか。
おそらく多くの人が「サイタマ」や「タツマキ」と答えるだろう。
現にTwitterでワンパンマンユーザーを調査すると多くのユーザーがその御二方を答えた。
もちろん他のヒーローの名が挙がらなかったわけではない。
そんな中多くのワンパンマンユーザーが、サイタマとタツマキの絶対的な強さを持つがゆえの自由奔放な生き方に憧れていたのだ。
なぜ性格に難アリそうなこの2人に私たちは憧れるのか?
もちろんサイタマとタツマキが強いからというのは理由のひとつだ。
しかし、単純に彼らが強いから私達は憧れるのではない。いつも通り、まずはそのアタリマエをまず疑ってみよう。
そうすることで我々がサイタマとタツマキに憧れを抱くのか少しずつ見えてくる気がする。
今回も大きく3つにテーマを分けて、なぜ私達がサイタマやタツマキに憧れるのか解析していこう。
なぜ私達はサイタマやタツマキには憧れるのか?
今回の問いはこちら。
だが本題に入って行く前に寄り道をしよう。
そもそも「憧れる」とは何なのか?
タイトルに「憧れる」という言葉を使ってしまった以上、私には説明責任がある。
さらにここで、言葉そのものを学ぶことには大きな意味がある。文化人類学は、文化を中心に扱う学問であるが、言葉と文化は切っても切り離せない密接な関係で結ばれているからだ。どうかお付き合い頂きたい。
そのアタリマエを疑うことに大きな意味がある。
学びを深めるために、そもそも何かに「憧れる」というのはどういう心情なのかを解析していこう。
「憧れる」というのはどういう心情なのか。
「憧れる」という言葉は知っている。でも人に分かりやすく説明できるかと言ったら自信はない。そもそもこんなこと日常で考えないだろう。
日本語を母国語として扱う私たちは、意味よりもイメージで言葉を覚える。「走る」という行為をどんな行為か口で説明するのは難しい。だって「走る」は「走る」だ。それ以上でもそれ以下でもない。手足を交互に素早く入れ替えながら、前に進むことだと説明するという方がいれば、挙手を願いたい。
やはり、走っている状態を脳内にイメージするのが普通だ。
この例に見習って、「憧れる」という現象も、私たちの経験を解析することでイメージしていこう。
尊敬とあこがれの違い
「あなたにとって憧れの人は誰ですか?」という質問をされたとしよう。あなたはなんて答えるだろうか。きっと多くの人がスポーツ選手であったり、タレントであったりする。
おそらく「父です」「母です」といった身近な人を挙げる人は少ないだろう。
どちらかというとそれは尊敬する人にあたる。そして尊敬する人は身近であることが多い。自分と実際に関わりがあり、自分にとって手本となる振る舞いをする人を指すことが多いのではないだろうか。
実のところ、私も父を尊敬している。ふざけてばっかりの父であるが、真面目モードもしっかり兼ね備えている。さらには安いスーパーでしか買い物をしない節約家であるが祝い事のときには惜しみなく貯金を切り崩し、盛大に祝うところなど人間としての器が大きい。
だが、父に憧れるか?といったらそうではない。
父に抱く感情は「憧れ」ではなくやはり尊敬だ。手の届かない、自分にはなれない、といった具合ではない。見習うべき人というのがしっくりくる。
なんとなくイメージが湧いてきたと思うが、尊敬とは自分のロールモデルとなる人に向ける感情なのではないか。
憧れと尊敬は別物となんとなく理解したところでさらに掘り下げていこう。
憧れとはキラキラ
では憧れとはなんだろうか。
大学の講義で、グループワークの際、アイスブレイクの時間で『あなたの憧れの人は?』といったテーマでディスカッションすることがあった。
そのディスカッションのなかでほとんどの人がサッカー選手やお笑い芸人、アイドルや女優、モデルなどを挙げた。では憧れの対象となる人物にはどんな特徴があるのか、イメージをまとめてみよう。
・キラキラしている
・手の届かないところにいる
・星みたいな存在
こんなところだろうか。
簡単に言ってしまえば、憧れとは「キラキラ」だ。
ここが最重要ポイントだ。
ではなぜ「キラキラ」に見えるのか。
この問いを突き詰めていかないと「憧れ」の本質は見えてこない。例を挙げて考えていこう。
星と憧れの類似点
簡単な話だが、星はキラキラしている。
しかしながら、四六時中キラキラに見える訳ではなく、昼は我々の肉眼には写らないし、星のことを考えようともしない。夜になってはじめて夜空に思いを馳せたり、なんとなく空を見上げてみたりして星の存在に気づく。
つまり星とは比較できる対象がなければ、キラキラしているとも気づくことが無いのだ。昼には見えないのは明るさを比較できる対象がないからであり、星は夜空という比較対象があるからこそキラキラ輝いて見えるのである。
ただのロマンチックな話をした訳では無い。これは私達人間の「憧れ」の感情に近いものがある。
星がキラキラしてみえるように、憧れとは比較対象があることで、はじめて生まれる感情なのだ。
憧れとは自分自身と比較して生まれる感情
では私達は、憧れの人物と何を比較しているのか?おそらくすでに多くの読者がお気付きであろう。
そう自分自身なのだ。
我々は自分と憧れの人物を比較しているのだ。われわれが夜空だとしたら、憧れとは星に当たる。
自分が持っていないものを憧れの人物は持っている。それに嫉妬しているというよりは、手の届かない所にいる存在。半ば「自分がなれるわけはない」といった諦めの感情も入り混じっていることだろう。
だからこそわれわれは、手の届かないサイタマやタツマキに対して「憧れ」を持つワンパンマンユーザーが数多くいるのだ。
「憧れ」という感情をある程度理解したところで、われわれはサイタマやタツマキの圧倒的強さ以外の何に憧れを持っているのか。
サイタマやタツマキにあって、我々に持ってないものは何か。彼らはなぜキラキラしているのか?
その答えは私達の生活を覗かないと、見えてこない。
その本質は私達と彼らのワークスタイルの違いにある。
次は私達と彼らの働き方の違いに着目していこう。
組織で動く日本的ワークスタイル
前置きが少々長くなってしまって申し訳ない。ここではまず結論から述べよう。
もちろん答えは一つでない。ただ僕らになくて、彼らにあるものを探していくとぼんやりがと一つの答えが見えてくる。
我々はサイタマとタツマキのワークスタイルに憧れているのだ。
頭に「?」が浮かんでいる方も多数いることだろう。少しずつ掘り下げていこう。
先程「憧れ」という感情は、自分にないものをもっているキラキラとした存在に向ける感情だと論じた。つまり彼らのワークスタイルはわれわれ一般人にはないものなのだ。
だから彼らはキラキラしてみえる。
となれば、まずは、われわれ日本人の一般的なワークスタイルを解析する必要がある。
日本の企業の組織形態
われわれ日本人の一般的なワークスタイルをのぞいて見よう。私達はよく働く社会人の男性をサラリーマンと呼ぶ。現在でも社会人の多くの方が「サラリーマン」に当てはまる。サラリーマン社会の構造を解析することで、日本的ワークスタイルが見えてきそうだ。ここでは大企業の組織形態をみていこう。
上記の図は職能別組織という形態だ。それなりに大きい企業になれば、個人ではなく組織で動くことが多い。一人で何億円も稼ぐ力は多くの人にはないので、チームワークを重視し、各組織で連携をとり効率を高めるのが日本的ワークスタイルだ。
ゆえに部内ミーティングや会議、あるいは飲み会といった全体のチームワークを向上させるといった主旨のイベントが実に多い。これらすべてが本当に有意義なのか、無駄なのかは別として。われわれは組織で動いているのだ。
筆者的にはダラダラと何次会まで続くか分からない飲み会をするよりも、2時間くらい体育館を借り、ドッジボール大会をした方が上司や部下、さらには部署ごとの壁を超えて、コミュニケーションや信頼関係を築けると思われる。スポーツにはそういう力がある。飲み会なんて仕事の延長線にすぎない。とまあ与太話もこの辺にしとこう。
日本のサラリーマンの1日
さて、日本のサラリーマンはどのような1日を送っているのか。こちらの、都内で働く証券マンの1日が、実に日本的ワークスタイルの典型だと思われるので引用させていただきます。ご覧あれ。
いかがだろうか。「朝5時に起きて、19時に帰宅するとか長過ぎだろう」といった、最近言われがちな労働時間の長さを取り上げているのではない。
面白いのはこの会議の多さと、上司への報告の多さだ。無駄な会議や無駄な報告も数多くあるだろう。生産性のない会議や報告ほど苦痛なものはない。一秒でも早く終わらせて次のタスクに移りたいと誰もが感じているだろう。
しかし、日本的ワークスタイルの組織で生きるとはこういうことなのだ。
組織で動くフブキ
ちょっとここで思い出してほしい。『ワンパンマン』にも組織で動いている人物がいたはずだ。そうタツマキの妹、地獄のフブキだ。実にこのキャラは私達に被る。
組織で行動し、派閥を意識し、群れないと不安な私達にそっくりだ。学生のときも社会人のときも組織で動くという点に関しては大差ない。ONE先生はサイタマやタツマキの対比として、フブキを描いているのかもしれないが、これは日本の組織社会を暗に描いているとも言えないだろうか。
さあ、日本的ワークスタイルをなんとなく理解できたところで、次はサイタマとタツマキのワークスタイルを解析していこう。
個で輝くサイタマやタツマキ
今回の講義のメインテーマに移っていこう。前項で日本的ワークスタイルは、会議や報告が多かったりと実に組織的だとまとめた。それに面倒臭さや苦痛を覚える社会人も多くいることだろう。
それに対してサイタマやタツマキは、どのようなワークスタイルで仕事をしているのか、実に興味深い。少しずつ彼らを探っていこう。
まず前提として、彼らは立派な社会人であることを忘れてはならない。彼らもヒーロー協会という組織に事実上は属しているし、怪人を退治する対価としてお金という報酬ももらっている以上、彼らもれっきとした社会人だ。ではわれわれと彼らの働き方は何が違うのか。彼らのワークスタイルについて、漫画から分かる情報をできる限り集め、様々な観点から見てみよう。
働いている日数・時間
確証を得るシーンは見つけることが出来なかったが、彼らの働くとは戦うことなので、彼らがどれくらいの頻度で戦っているかに着目すれば良い。
サイタマに関しては、戦う以外のプライベートも散見された。彼は主に日中にヒーロー活動をしている。われわれのように何時何分から何時何分までではなく、怪人が出現したときに退治し、それ以外は好きな時間に見回りやターゲットを探しに行っている。
タツマキは戦闘シーン以外の描写は少ないが、彼女はS級ヒーローのため、出動要請も多く、あちこち忙しく働いている印象だ。
1つはっきりと分かることは、彼らは夜にヒーロー活動はしていないということ。サイタマは夕方にはお気に入りのスーパーのセールで買い物をする描写もあることから、日中以外は仕事をしていない。ただ土日休みはあるのかは不明で、おそらく土日に怪人が出現したら退治はしないといけないのだろう。
どうやら働いている日数や時間に関しては、我々と大差ないようだ。ただ私達より、時間には縛られていないので、好きなときに働くことが出来る。
そのかわり、出動要請がいつくるか分からないため、いつ休めるかは具体的に決められていない。
おそらく、すでに気付いている方もいるだろうが、我々の社会にもこのようなワークスタイルで働いている人々がいる。
そうフリーランスで働く方々だ。
最近ではテレワークを推奨する企業も多いが、一度は読者の方々も憧れたことがあるのではないか。好きなときに好きなことをして働きたい。
その代わりに、責任はグッと重くなるのも事実だ。
ヒーロー協会という組織に属しながら、フリーランスのような働き方が出来るサイタマやタツマキに憧れる方が多いのでは?というのが、私のここでの主張だ。
もらえる給料
就職活動や転職活動をしている際、気になってしまうのがやはり給料だ。自分の労働価値に対して、どれくらいの見返りがくるのか。働く上では重要な要素でもある。
ただし、ここはサラッと流したい。理由は簡単で、我々はサイタマやタツマキの給料の額に嫉妬したり、憧れたりはしないからだ。
我々の憧れているポイントは、給料の額ではなくて、好きなことをして給料をもらえる点だ。
現にサイタマはヒーローになってない頃やC級ヒーローの頃は、シンプルな暮らしを送っているが、A級ヒーローになってからはお金に困ってはいないと推測できる。タツマキも同様で、タツマキのプライベートを描くシーンはほとんどないが、S級ヒーローゆえに法外な報酬をもらっていることは容易に推測できる。
しかしながら、彼らはお金に興味はなさそうだ。
お金がもらえるからヒーローをやるのではなく、自分の能力を活かすことが出来るからヒーローをやっているのだ。
本来、働くという本質はここにあるはずだ。
この場面を見てもわかる通り、クビになって給料がもらえなくなっても構わないという覚悟がわかる。
ここが私達と大きく違う点だ。皮肉でも何でもなく、多くの日本人はお金がもらえるから仕事をしているのだ。もちろんそうだ。われわれには守るべき生活や家族もいる。
しかしながら、好きなことをして給料をもらっている人々をみて憧れるのは、自分は好きでもない仕事をしてお金をもらっている自覚があるからだろう。
とまあ、仕事とお金というテーマに正解はないし、ハズレもないのでここまでにしよう。
繰り返すが我々は、彼らの給料ではなく、好きなことを仕事にしている点に憧れているようだ。
組織内での振る舞い方
ここが、おそらくわれわれが最も憧れるポイントであろう。我々が住む日本社会では、「私の振る舞い方」が環境によって大きく異なる。
「家でのあなた」「学校でのあなた」「会社でのあなた」様々なモードが我々にはある。
さらには、学校にいても先生と友達の前での振る舞い方は大きく異なるし、会社にいても同僚と上司の前での振る舞い方も変わってくるだろう。
「そんなことはない!いつだって俺は俺だ!」という純粋無垢な少年・青年もいるかもしれない。
しかしながら、環境によって立ち振る舞いを変えているのが分かる何よりの証拠がある。主語に着目しよう。
友達の前では、男性であれば「俺」と一人称を使うが
先生の前では、「私」や「僕」になることが多い。
それは社会人も同様に、同僚と上司の前では主語のスイッチングが行われる。
立ち振る舞いの変化は、主語のスイッチングに現れる。私達は組織が変われば、振る舞い方が変わるのだ。
それに対し、サイタマやタツマキは組織によって立ち振る舞いが変わるのだろうか?該当するシーンを探してみよう。
これはサイタマがC級からB級に昇格した際の出来事。B級に上がったヒーローは、B級1位のフブキの元へ挨拶にいくのが通例らしいが、サイタマはそんなことを知るはずもなく、フブキがサイタマの自宅を訪れた際の場面だ。
日本社会は縦社会なので、先輩ー後輩の関係であれば、先輩を敬うのが普通である。フブキはB級の先輩にあたり、サイタマは新人なので、日本社会のしきたりに従えばサイタマはへりくだった態度を取らねばならないが、この有様である。
さらにやりとりはエスカレートしていく。
目上のヒーロー相手に、「何?」という始末だ。
清々しすぎる。こんなふうに我々も生きれたらさぞ楽であろう。
そして更には逆ギレをかます。
われわれの社会にも、数多くのしきたりや暗黙の了解があるが、サイタマはそんなの意に介さない。
次はタツマキの組織内での振る舞い方も見ていこう。
会議でブチ切れ、挙句の果てには「私一人でやる」と吐き捨てる。彼女においてはS級2位とかなりの身分であるが組織内で大切とされるコミュニケーションや協調性がまるでゼロなのだ。
組織で大切とされる要素を彼女がたとえ持っていなくても、関係ない。彼女は1人で戦い結果を出す。
それゆえ周りの人物も何も文句は言えない。
最後に作戦会議の際の2人の振る舞いを見て終わりにしよう。
「お茶もらえる?」
この一言にビリビリきたのは私だけだろうか?
S級である弟子のジェノスの付き添いで、S級ヒーロー会議に仕方なくきたサイタマだが、この態度だ。
例えるならば、大企業の幹部会議に、平社員が1人だけ混じっていて、挙句の果てに「お茶もらえる?」との横暴さを極めるといった具合だ。
カッコよすぎますサイタマ先生。
当たり前だが、こんなこと私たちにはできない。繰り返すが、私達の立ち振る舞い方は周りの環境によって決まってくる。
周りに、上司や幹部の方しかいなければ私達は上の方を立てるような振る舞い方に変わるし、逆に自分が1番身分の高い役職ならばリーダーシップをとらなくてはいけない。我々はやはり自分をスイッチングして日々組織の中を生きているのだ。
サイタマやタツマキに憧れる1番の要因は、おそらくこの組織内での振る舞い方だ。彼らは全くスイッチングしない。そもそもスイッチングがないのだ。自分の中に1人の自分しかいないということだ。
それゆえ周りの目など気にすることはない。絶対的な強さ故に自由奔放な生き方ができるのだ。彼らは組織ではなくて、個人で輝く。
我々がサイタマなタツマキに清々しさを覚えるのはこの部分だ。
絶対的な強さではなく、強さゆえの自由奔放さ。
これこそが私達の憧れるポイントなのだ。
まとめ
今回はやや遠回りして結論に至った。
私達がサイタマやタツマキに憧れるのはなぜか?という問いに対して、我々はまず「憧れる」という感情とはそもそも何かとアプローチを取った。この憧れるという感情は自分自身と憧れの対象とを比較して、生まれる感情だと解いた。それゆえ「憧れる」という感情を解析すれば、自分が置かれている状況がわかってくるのだ。
私達と彼らのワークスタイルの違いに着目し、日本的ワークスタイルは組織的で、サイタマ・タツマキ的ワークスタイルは個人的だという結論に至った。
日本社会の働き方の構造までなんとなく理解することができた。日本社会では、組織環境によって自分の立ち振る舞い方をスイッチングし、上下関係のしきたりや暗黙の了解に縛られながら、言い方を変えれば信仰しながら生活している。
それらに縛られず、絶対的な強さゆえに自由奔放な生き方を謳歌するサイタマやタツマキに我々は憧れるのだ。
今回の講義で、日本的ワークスタイルをなんとなく理解して頂ければ幸いだ。憧れるという感情を解析することは、社会構造を理解するのに役立つのだ。