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「アタリマエを疑う」をモットーに、グローバル社会を生き抜く上で必要な異文化理解力を培うサイト。人気な漫画や映画を哲学したり、大学生向けの記事を書いてみたり、第二言語習得の学習方法を提供したり、文化人類学の講義をしてみたり、テーマは幅広く執筆します。勉強を楽しく分かりやすく。

『文化人類学』って何?①:なぜ私達は玄関で靴を脱ぐのか?

今回の講義では、文化人類学という学問について、具体例も含めながら一緒に学んでいこう。

もし運良くこの学問に出会うことができたのなら、あなたの人生はガラリと変わっていく。

 

・あなたという人間にさらに深みがでる。

・以前より確実にモテる。

・世界がどのようにつくられているか理解する手段を得ることができる。

・あなたの人生で壁や困難にぶつかったとき、冷静に対処することができる。

・「別にそれもありじゃね?」と多様性に富んだ視点を身につけることができる。

 

これらはまだ序の口にすぎない。

あなたはこの学問と出会ってしまったが最後、以前のような狭い世界には戻ることができなくなる。

それだけは覚悟しておいてほしい。

 

さて、おそらく文化人類学という学問は、大学の教養科目として初めて出会う方がほとんどだと思われるが、簡単に言ってしまえば身の回りのアタリマエを疑う学問だ。

例えば、私達が玄関で靴を脱ぐのはなぜなのか、私達が箸を使うのはなぜなのか、私達が寝る前に風呂に入るのはなぜなのか。

そういった取るに足らないアタリマエでいいのだ。そのアタリマエとされている文化や常識について、ちょっと立ち止まり、考えてみる。それが文化人類学の学びの始まりだ。

ここでは、なんとなく文化人類学という学問についてイメージが出来ていれば幸いだ。これから文化人類学とはどんな学問なのかを具体例を挙げながら一緒に学んでいこう。

 

 

文化人類学ってどういう学問?

1.身近なアタリマエや常識を疑う学問

あれこれ説明すると分からなくなってしまうので、まず結論から述べさせて頂きたい。ズバリ、文化人類学とは身の回りのアタリマエを疑う学問

本当に些細なこと、取るに足らないアタリマエでいい。いわゆる常識というやつを疑ってみよう。その国の文化を考察し、最終的には人間とは何か考える学問であるゆえに文化人類学や人類学の始まりの地であるイギリスでは社会人類学と呼ばれる。

 

では、どうしたらその身の回りのアタリマエや常識を疑う事が出来るのか。そこでわれわれのアタリマエに着目しよう。

例えば、そう、想像してほしい。

あなたは友達と遊び、楽しいひとときを過ごし、日も暮れたので家に帰ることにしました。いつもの帰り道を歩き、家に到着しドアを開ける。

ここでストップ。

さて次にあなたは何をするか?

日本人なら誰もが同じ答えに辿り着くであろう。

そう。私達は靴を脱ぐ

日本では靴を脱ぐという文化があるからだ。

これは取るに足らないアタリマエだ。常識だ。

ある日突然「なんで日本って土足で家に上がっちゃダメなんだろう。」と問い直すことはまずない。

よって普通に生活していたら、このアタリマエを疑うことはできない。

ちなみにみなさん、日本の家で、靴を脱ぐのは、「土足は汚いから」とか衛生的な理由だと思ってないだろうか?

確かにそれも一つの理由かもしれない。

しかし、日本の靴を脱ぐ文化の本質はもっとディープだ。ここでそのディープな理由を知りたいと思った好奇心旺盛なそこのあなた。

ぜひ最後までお付き合いくださいませ。

 

今回は、日本の土足厳禁文化という例を見ながら文化人類学的思考法について学んでいこう。

さて、この「土足厳禁」というアタリマエをどうやったら疑うことができるのでしょうか。次項でその方法について考えていこう。

 

 

2.異文化と出会うことで自文化を見つめ直す学問

小見出しで結論を述べさせてもらった。われわれの取るに足らないアタリマエを疑うには異文化に出会う必要がある。

他者を知ることで自分を知る

異文化というと少し遠い感じがするが、簡単に言ってしまえば異文化とは他者だ。自分が何者か知るためには他者に目を向ける必要がある。

唐突な自慢ですが筆者は足が速い。レアル・マドリード所属のギャレス・ベイル並に足が速い。しかし、もし地球上に生物が筆者一人しかいなければ、比較対象がないので筆者は足が速いことも分からない。自分の周りを見渡し、他者と比べることで自分はかなり足が速いということを知る。そこからなぜ自分は足が速いのかという考察を始めることができる。極端な例ではあるが、他者と出会うことで自分を見つめ直すことが可能になる。

 

異文化を知ることで自文化を知る

先程の例からも分かる通り、日本の「靴を脱ぐ」というアタリマエを疑い、考察するためには異文化に出会う必要がある

異文化に出会わない限り、常識やアタリマエを疑うのは難しい

むしろ出会わなければ、永遠に日本の文化や常識がすべて正しいと考えてしまい、日本こそが世界のスタンダードだと大きな勘違いに陥ってしまう。

それゆえに「海外に行け」 「留学しろ」と謳う有識者が数多くいるのだ。

彼らの言うとおりで、実は海外の文化を知らないと、日本の正体が見えてこないのだ。

ずっと自国で閉じこもって生きるのもそれもまた一つの生き方だ。加えて今はインターネットが普及しているので容易に海外の情報を得ることができる。

それでも、あなたの目でみた異国での経験は、確実にあなたの人生にインスピレーションを与える。あなたのあたまに雷が落ちるような衝撃を与える。

だからこそ自分の人生に行き詰まったら海外に旅してほしい。

さて私が熱苦しくなってきてところで話を戻そう。

 

アメリカの玄関事情

ではここで実際に異文化に出会ってみよう。遠くて近い国アメリカの玄関事情に着目してみる。ご存じの方も多いと思わるが、アメリカは土足文化*1だ。

日本の常識で考えれば、土足は「不潔」「疲れそう」といったイメージが上がることだろう。

だが一旦ここで日本的常識、偏見はここで捨ててみよう。真っ白な状態でアメリカの土足文化を探検してみよう。

 

土足の理由は様々だが、その一つとして玄関の作りがある。アメリカの玄関は日本のように玄関に段差がない家庭がほとんどだ。

つまり実質的に玄関が存在しないのだ。ゆえにいきなりリビング、いきなりキッチンということもザラにあるのだ。

段差がないということは靴を脱いだり、履いたりするときに腰を下ろせないということになる。それなら土足で家に上がることも納得できるかもしれない。

 

玄関がない理由として挙げられるのは、主に二つある。

一つはアメリカが車社会ということ。

ガレージに車を停め、そのままガレージの勝手口から家に入ることがほとんどだそうだ。ただ配達員の方が来たときや、友人を招く場合は正規の入り口から招くことが多い。

二つ目は、合理性という点だ

玄関を作るくらいならリビングを広くしたり、トイレを多く作ったほうがよいとされている。

つまり玄関が日本ほど重要視されていないのだ。

本当にないの?と疑問に思う方もいらっしゃると思うので、いくつか例を見ていこう。

 

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映画『マルチダ』のワンシーン。息子を殴ろうとしてる父親が気になるが、ドアはリビングと隣接していることが分かる。

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映画『ホームアローン』のワンシーン。主人公ケヴィンの家はなかなかの豪邸だがドア付近に靴置き場などはない。

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アメリカに住むホワイトさんの家。こちらも玄関的空間は見当たらない。どうやらアメリカの住宅に玄関が存在しないのは、本当のようだ。

 

さあ、このように簡単に異文化をみつめてみたが、あなたはどう感じただろうか?

日本の靴を脱ぐという文化は世界のアタリマエではないということを知ることができただろう。

そこで私達は自文化を見つめ直すことができる。

「なぜ日本は靴を脱ぐんだ?なんで日本の家には玄関があるんだ?」

このように自文化を疑う事ができれば、学びはさらに深くなっていく。グローバルな視点を持つことができる。

異文化と出会うことで自文化を見つめ直す。

そんなディープな学びこそが人類学の真骨頂なのだ。

 

 

3.人間とは何かと再考し続ける学問

これこそが人類学の到達点だ。異文化と出会い、自文化を見つめ直す。

この見つめ直すという作業を突き詰めていくと、「人間とは何か?」という哲学的思考に辿り着く。人類学と哲学が親戚のような学問であるのはこのためだ。

せっかくなので、「なんで日本の家には玄関があるのか?」という問いについて考えていこう。靴を脱ぐ文化の理由のヒントがそこにありそうだ。

まずは現代日本を生きるわれわれの玄関事情を覗いていこう。

では、現代の玄関にはどんな役割があるのか。いくつかまとめてみよう。

 

訪問客や配達員の対応空間

長居はしない方への対応空間といったところだろうか。これは日本人の恥の文化が関わってくるのではないかと私は考える。いわゆるプライバシーの保護だ。

玄関がなかったら、いきなりリビングが初対面の方や面識のない方に見られてしまう訳だ。リビングにある家具や家族構成まで知られることもあるのだ。

ましてや自分の趣味やこだわりがリビングにはある方もいるだろう。親しい人ならまだしも、いきなり知らない人に見られるのは恥ずかしいと思う方もいらっしゃると思われる。ゆえに玄関はプライバシー保護の空間であると言える。

 

家の看板的空間

例えば、あなたが散歩中たまたまドアが開いてた家の玄関が見えたとしよう。その玄関をみて、ものが散乱していたり汚れが付いていたりしたらあなたはどう思うか?

きっと多くの方が「だらしない人なんだろうなあ」「きっと家の中も汚いんだろうな」と思うことだろう。

そう玄関はその家の看板的空間なのだ

家の中への入り口だからこそ、玄関が汚ければ容易に「中も汚い」と想像できてしまう。そしてその住人の性格までなんとなくレッテルを貼られてしまうのだ。それゆえ一人暮らしの方より、家族の看板を背負っている家族世帯の住宅のほうが玄関が綺麗な傾向にあるというデータもでている。

 

心の切り替え空間

少しディープに玄関の役割を掘り下げていこう。この役割を見ておそらく首をかしげている方もいらっしゃるだろう。

心の切り替え空間というのはどういうことなのか。

これは子どもから大人まで当てはまることだろう。朝になって、朝ご飯をたべ、歯磨きをして、みじたくを済ませる。子どもであれば学校に行く。大人であれば会社に向かう。これは全ての人に当てはまるとは限りらないが、家の中での自分と家の外での自分が全く同じだという人は少ないはずだ

全く同じであれば、さぞ生きるのが楽なことか。

現に私は、実家暮らしで学生の頃は家の中での自分と、学校の自分はまあまあ差があったように思える。

自分がありのままの自分である空間が家だとすれば、学校の自分は人から良く思われるために少し自分を偽っていた。

当時学生であった自分ですらそうであったのだから、会社で働く社会人の皆さまはもっと家モードと仕事モードを無意識に使い分けているのではないかと思われる。

家がウチだとすれば、学校や会社はソトに分けられる。

それも踏まえて想像してみよう。

顔を洗い、朝ご飯を食べ、歯磨きをして、学校や会社へ行く準備を済ませ、ついに出発のときだ。リビングのドアを開け玄関という空間に入る。

そのときの心情の変化いかかだろうか?

果たしてリビングにいたときと同じだろうか。

玄関への廊下や靴を履いているときに、おそらく学校のことを考えたり、今日の仕事のことを考えたりするはずだ。

いわゆる学校モードや仕事モードに無意識のうちに入るのだ。

もしかすると玄関は心情面においても家の中であるウチとそれ以外の空間であるソトをつなぐ中間領域なのかもしれない。

 

日本のウチとソトという文化

ではなぜ人間には、いや日本人には中間領域である玄関が必要であるのか。さらに深掘りしてしていくためには、日本の「ウチとソト」という文化に触れていく必要がある。こちらの解説がとても分かりやすい。

imidas.jp

こういった日本のウチとソトの文化という概念こそが玄関という装置を生み出したのかもしれない。

類学にはウチが穢れ*2のない聖域だとすると、ソトは穢れのある危険な領域という説がある。

この概念に従えば、玄関の役割が見えてくる。ウチとソトの中間領域こそが玄関なのだウチとソトをはっきりと区別させるために玄関が存在していると言うことになる。

穢れの緩和こそが玄関の役割であり、穢れのある靴は玄関でしっかりと脱ぐ習慣や正月には悪い霊が家に入り込まないように神様を祀る習慣も納得できる。

これらの習慣は弥生時代からあるという説もあるくらいで、農村社会の歴史が長いこと、鎖国というまさにウチとソトという文化を助長する歴史があったこと、これらを踏まえれば玄関はなくてはならない存在だったのかもしれない。

つまり土足厳禁、靴を脱ぐ文化はソト(家の外)の穢れをウチ(家の中)に持ち込まないために靴を脱ぐ、そのために玄関が存在しているのではないかというのが一つの答えだ。

 

4.まとめ

このように土足厳禁という文化をちょっと疑ってみるだけで、玄関の役割やなぜ玄関が必要なのかということと人間とは何かというディープな学びにつなげる事ができた。土足厳禁という文化はわれわれにとってアタリマエであるが、異文化に出会うことで、世界のアタリマエではないことが分かった。

そして自文化を見つめ直すことで、人間とは何かという問いまで立てることができた。この小さな発見こそが文化人類学の可能性なのだ。

そして、その自分に新しい気付きや発見をもたらしてくれる異文化や他者は、日常の中で出会うことができる

「なぜ?」というアンテナをもって、日常のアタリマエを一歩引いて考えてみよう。ただ楽しい、面白いだけで終わらせる浴びる遊びは本日以降ご法度だ。

 

さあ小さな好奇心をもって、小さな発見の旅に出かけよう。

*1:最近は靴を脱ぐ家庭も多くなってきている。土足の代わりにルームシューズを履く人が多い

*2:文化人類学の用語。不潔で考えられないものに対する嫌悪感